AOPY の世界遺産訪問報告
 
















概要:
ロレーヌ地方の中心都市、ナンシー市内にある広場。スタニスラス広場は18世紀半ば、ルイ15世の義父であり、ロシアによってポーランド国王を追われ、この地に逃れてきたスラニスラス公によって作られた。広場はエマニュエル・エレ、ロココ式の門の設計はジャン・ラムールによるものである。隣接するカリエール広場は「競技場」の意味で、16世紀に作られ、馬上槍競技場として使われていた。アリアンス広場は中心に噴水のある小さな広場で、アリアンスとはフランス王家とロレーヌ公家の「同盟」を表す。ナンシーはアール・ヌーヴォーとマカロン発祥の地である。


















































































































概要:
フランス東部、アルザス地方の中心都市で、ドイツとの国境の街、ストラスブールにある旧市街地区。市内を流れるイル川の中洲にあるプティット・フランスと呼ばれる地区やストラスブール大聖堂などが世界遺産の登録対象となっている。ストラスブールは歴史的にドイツとの戦争で領土紛争の典型的な場所となり、現在ではヨーロッパの平和の象徴として欧州議会がこの地に設置されており、「ヨーロッパの首都」とも呼ばれるようになった。




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18世紀都市計画の好例
ナンシーのスタニスラス広場、カリエール広場、及びアリアンス広場

  2014年4月訪問
感想:
以前から「スタニスラス」なんてポーランド風のしゃれた名前が何故付いているのだろうと思っていましたが、調べてみるとやっぱりスタニスラスって元ポーランドの国王の名前でした(ポーランド語ではスタニスワフ?)。彼の娘さんがなんとルイ15世の奥さんだったそうで、この広場はスタニスラスが娘婿のルイ15世を讃えるために作られたそうです。じゃあ、「ルイ15世広場」と名付ければいいと思うのですが、フランス革命以前は実際に「国王広場」と呼ばれていたそうです。「スタニスラス広場」という名前がついたのはフランス革命後の19世紀半ばで、後世の人が付けたものです。広場自体は一見どこにでもあるヨーロッパの広場ですが、四方(全6か所)に設置された金色と黒のロココ式の門と柵が特徴的です。ナンシーはアール・ヌーヴォー発祥の地と言われますが、それとの関連性は不明です。こういった門はヨーロッパではよく見られるデザインですが、ここが発祥!だったらすごいのですが・・・。それはともかく、訪れた時はちょうど何かのイベントかどうかは分かりませんが、バトミントンとテニスのあいのこみたいな競技が行われ、競技のいろいろな設営がされていましたので景観は見るも無残な状態。競技と言ってもただの遊戯みたいなもので、何もこんな場所でやる必要もないのでは?と思わせるような感じでした。夕食を終えてもう一度広場に戻ってみますと、すべて片づけられていて通常の状態に戻っていましたが、まあ、やっぱり普通の広場でした。すぐそばに他にカリエール、アリアンス広場とありますが、こちらのほうはもっと普通といいますか、ごくありふれた広場でした。カリエール広場は縦に長くなっていますが、ここはもと馬上槍試合が行われていたそうです。18世紀の都市計画の重要な資料として世界遺産に登録されたそうですが、「ああそうですか。」としか言いようがありませんでした。
アクセス:ランスからレンタカー

  
スタニスラス広場。建物は市庁舎。                 門と大聖堂。


ロココ調の装飾が施された門。


広場にはカフェが並んでいました。


例によって夜はライトアップされています。


カリエール広場。こちらにも一応黄金の門があります。


凱旋門とチキトレイン。


こちらはアリアンス広場。小ぢんまりとした普通の広場でした。


歴史に翻弄されたドイツ国境の街

ストラスブールのグラン・ディル

★★★  2014年4月訪問

感想:
小学校の時、国語の授業で普仏戦争時(1870年)のこのアルザス地方を舞台とした、ドーデの「最後の授業」を習いました。「他国に侵略されても私たちは自国の国語であるフランス語を決して忘れてはいけません。」みたいな内容だったと思いますが、民族の独立の証とは、領土、通貨、そして国語をよく表した物語でした。しかし数年後、よく調べてみますとこの感動的な物語は実はとんでもないペテンで、中央主権国家・フランスの地方自治を阻害する一つの象徴的なプロパガンダだったのです。そもそもこのアルザス=ロレーヌ地方はもともと神聖ローマ帝国領内で、三十年戦争のウェストファリア条約(1648年)でフランスに割譲された地域で、この地域の人々はドイツ語の一方言であるアルザス語を話していましたし、風習的にもドイツ的な側面が強く、それに対する誇りも強く持っていました。そのことはこの地域を旅してみますと現在でも容易に発見できます。立ち並ぶ家々や言葉、料理に至るまで・・・。アメル先生の感動的な名ゼリフ、「たとえ民族が奴隷の身にされようとも、自分の国のことばを守ってさえいれば、牢屋のカギを握っているようなものです。」は、もともとフランス南部の方言であるプロヴァンス語を中央の標準語同化政策から守るために使われていた文句でした。つまり、中央=パリが標準フランス語を強要することに対して、地方=南部がプロヴァンス語を守り、それに抵抗するために使われた言葉だったのです。もっと笑ったのはこの作者のドーデはなんと南部出身で、プロヴァンス語話者だったのです。アメル先生は自分の故郷の言葉を捨て、中央政府から標準フランス語を普及させるために派遣された先生でした。つまり、アルザス語を話すこの地域の人々から見れば、アメル先生=ドーデは中央政府=権力にすり寄って魂を売った、「奴隷の身」となるわけです。
そんなドーデもいいことを考えながら、このストラスブールの街を徘徊するのも悪くありません。鮮やかな色を塗った漆喰に木骨組みの家々、シュークルートなどの名物料理、そしてアルザス語の看板などなど、この街を旅しながらアルザスの人々のこの地への誇りを感じずにはいられませんでした。
アクセス:ナンシーからレンタカー


ストラスブール旧市街地、グラン・ディル。


イル川沿いを遊覧ボートで優雅に観光。


ストラスブールの街角で。

  
ストラスブール大聖堂。南側バットレス(控え壁)部分。      西側ファサード部分。

  
バラ窓。                                  身廊部分。

  
ストラスブール大聖堂のステンドグラスもすべて見事なものでした。

    
プティット・フランス地区には漆喰に木組みの壁が特徴的な家々が数多く建っていました。


イル川の水面に木組みの家々が美しく映っていました。


夕暮れ時も風情があります。


夜は家々がライトアップされていました。


クヴェール橋と塔。


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