AOPY の世界遺産訪問報告
 













概要:
世界遺産に指定されている地域はパレスチナ領内の東エルサレムにあるが、イスラエルが領有を主張し実効支配している。旧市街地はイスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒、アルメニア人の地区の4つに分割されている。紀元前11世紀、ダビデ王に征服されてから街の発展が始まり、現在の城壁は1538年スレイマン1世によって築かれ、全長4.5km、43の見張り塔、11の門がある。
ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の聖地であり、現在も紛争が絶えない。1981年の世界遺産登録の翌年以来、世界で最も長く「危機遺産」のリストに挙がっている。ヨルダンによる申請遺産だが、1994年ヨルダンはヨルダン川西岸地域を放棄、また当時イスラエルが世界遺産条約に批准しておらず、その複雑な帰属問題に起因する紛争に鑑み、世界で唯一当事国を持たない世界遺産となった。



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エルサレム
      (当事国なし ヨルダンによる申請)

神によって定められた人類歴史終焉の地

エルサレム旧市街とその城壁群

  2012年11月訪問

感想:
キング・フセイン橋(アレンビー橋)での厳しい入国審査を受けたあと、乗り込んだシェルートの車窓からはいわゆる「ヨルダン川西岸」の荒涼とした岩山が延々と展開しているのが見えました。ソ連崩壊後、ロシアからのアシュケナージ・ユダヤ人が入植したというアパート群が次第に見え始め、徐々に街らしい風景に変化し始めると、ついにエルサレムにやって来たという感動がこみ上げてきました。これまで300件近くの世界遺産を訪問して来ましたが、これほどまでに期待感と緊張感が高まったことは未だかつてありませんでした。渡航前にはイスラエルによるイラン攻撃が近づいているとの報道でしたが、僕が訪問した時はガザ地区のイスラム教原理主義組織・ハマスとの紛争が開始され、全く予想していなかっただけに意表をつかれた感じでした。ハマスからのミサイルがエルサレム近郊に着弾したり、テルアビブへの攻撃等、いよいよ終末的な戦争に突入かとの噂もありましたが、10日ほどでひとまず和平合意に到達したとのことでした。実際にこのエルサレムを訪れてみますと、街は丘陵地帯にあり意外と勾配が多く、川といったものは全くありません。この不毛とも言える荒涼とした地に存在する街の領有をめぐって、何故人々は長い歴史の中で絶望的な争奪戦を繰り広げ、多くの血が流されてきたのでしょうか。それはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の3つの宗教に於ける聖地であるという世界でも稀に見る一大宗教都市であり、それらの宗教にまつわる膨大な数の神聖な場所がたった1平方kmに密集した、まさに世界遺産という範疇を遥かに超越した奇跡の聖地だからなのです。特にユダヤ民族にとってはエルサレム奪還は2000年間に渡る悲願であり、1967年の第3次中東戦争によって、ついに彼らはこのエルサレムの地に立ったのでした。そして1973年、続く第4次中東戦争が起こると、遠く離れた僕たち日本人も「オイル・ショック」という非常に世俗的な形によって、「ああ、エルサレムの問題は世界の問題なんだ。」とその時初めて実感したのでした。以降、この地をめぐる紛争は後を絶たず、さらに多くの国々を巻き込んで激化し今日に至っています。欧米、さらには中東の人々は世界の終末的な戦争、或いは第3次世界大戦が起こるとすれば、その舞台はこのエルサレムであると考えているそうですが、この地に課せられた余りにも壮絶な宿命は、約2500年前に旧約聖書に於いてゼガリアによって既に預言されているのです。
「見よ、わたしはエルサレムを、周囲のすべての民を酔わせる杯とする。エルサレムと同様、ユダにも包囲の陣が敷かれる。その日、わたしはエルサレムをあらゆる民にとって重い石とする。それを持ち上げようとする者は皆、深い傷を負う。地のあらゆる国々が集まり、エルサレムに立ち向かうであろう。」(旧約聖書 「ゼガリア書」 第12章 第2〜3節)


オリーブ山からエルサレム旧市街地を望む。中央は岩のドーム。
イエスはエルサレム入城に際し、オリーブ山からエルサレムを見て涙を流して、42年後のローマ帝国によるエルサレム陥落を預言しました。
「おまえとその内にいる子らとを地に打ち倒し、城内の一つの石も他の石の上に残して置かない日が来るであろう。それは、おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである。」(新約聖書 「ルカによる福音書」 第19章 第44節)


メインゲートであるダマスカス門。 


ダマスカス門を入るととても活気のある商店がびっしりと並んでいました。


ダビデの塔。


ダビデの塔から旧市街地を俯瞰。


実際に旧市街地を訪れてみますと、いつも緊迫した都市であるイメージと裏腹に、意外なことに商店の人々や住人の方々は、隣同士が違う宗教であっても和気あいあいといった感じで、他の都市と変わらない風景があって、とても心が和みました。商店街の雑踏を歩いているといろいろな店の人から声をかけられましたが、東欧などでよくあるようなツーリスト・トラップといった雰囲気は微塵も感じられず、非常に安心して街歩きが楽しめました。中には「うちに寄っていけよ。2階から街がよく見渡せるぞ。」などと言ってきたおじいさんがいたりして・・・。エルサレムはヘブライ語で「エルシャライム」、すなわち「平和の都」。もともとパレスチナの地ではアラブ人もユダヤ人(スファラディーのユダヤ人)も仲良く住んでいたのです。第二次大戦後、ヨーロッパからアシュケナージのユダヤ人を連れてきて問題を大きくしたのは腹黒紳士ことイギリス人でした。この街を訪れて感じたのは、戦争を煽っているのは欧米やイスラエルの実権を握っているアシュケナージ・ユダヤ人の戦争利害関係者だけなんだなということでした。


●イスラム教徒の地区
いろいろな露天や商店が並んでいて、とても親しみやすく散策しても楽しい地区でした。この地区の見所は何といっても神殿の丘に立つ岩のドーム(黄金のドーム)。エルサレムを象徴する建造物です。外国人がここを訪れるのには、嘆きの壁の右隣にある専用通路を通って、モロッコ門からしか入れません。時間制限もあり朝7時半から10時までと、昼は12時半から1時半までです(冬期)。金・土・祝日・ラマダーン期間中の午後は閉鎖されています。通路への入口は非常に厳重なX線検査があり、自動小銃を持った多くの兵士が警戒していました。もちろんイスラム教徒以外は岩のドーム内には入れません。


ついに神殿の丘に立つ。


エルサレムの象徴、神殿の丘に建つ岩のドーム。
預言者ムハンマドは天使ジブリール(ガブリエル)に伴われ、マッカのカーヴァ神殿からこのエルサレムの神殿の丘まで、たった一夜にして旅をしました。これは神によって与えられた奇跡でした。その夜に預言者ムハンマドは昇天し、神との接見を果たしたのです。
「かれに栄光あれ。そのしもべを、(マッカの)聖なるマスジドから、われが周囲を祝福した至遠の(エルサレムの)マスジドに、夜間、旅をさせた。わが種々の印をかれ(ムハンマド)に示すためである。本当にかれこそは全聴にして全視であられる。」(コーラン 第17章 「夜の旅」 第1節)


エクステリア部分。タイルの模様とアラベスクが織りなす、想像を絶する美しさ。


神殿の丘を歩くイスラム女性。



アル・アクサー寺院前での修学旅行生?


●キリスト教徒の地区
イエスが十字架を背負わせられゴルゴタの丘に向かった道は、ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)と呼ばれ、聖書に基づいたエピソードが各ステーション(留)にあります。大きな十字架を背負った信者の方を先頭に、多くの信者の方々が聖墳墓教会を目指して歩いていました。聖墳墓教会にはイエスの墓がありますが、内部に入るため長い行列が出来ていました。これまで数え切れないほどの教会を訪問しましたが、これほどまでに厳かな雰囲気に包まれている場所はありませんでした。

  
イエスの裁判が行われた、エッケ・ホモ教会のアーチ。この少し手前のエル・オマリア・スクールからヴィア・ドロローサが始まります。
「それからイエスは弟子たちに言われた、だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(新約聖書 「マタイによる福音書」 第16章 第24節)

  
第3留。イエスが十字架の重みに耐えかね  第4留。苦悩の母マリアの教会。
最初に倒れた所。                   ここで母マリアがイエスを目撃しました。

 
ヴィア・ドロローサ・第5留。クレネ人のシモンがイエスに代わって十字架を背負わされた場所。
「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父シモンというクレネ人が、郊外からきて通りかかったので、人々はイエスの十字架を無理に負わせた。」(新約聖書 「マルコによる福音書」 第15章 第21節)


第6留。ヴェロニカ教会。ヴェロニカという女性がイエスの顔をハンカチで拭った場所。


  
ヴィア・ドロローサは途中当時と同じように、            第9留。聖墳墓コプト教会入口。
非常に狭い商店街の中を通り抜けていきます。           イエスが3度目に倒れた場所。

  
聖墳墓教会(第10〜14留) ヴィア・ドロローサの終点です。かつてゴルゴタの丘があったとされ、イエス終焉の地です。
「そしてイエスをゴルゴタ、その意味は、されこうべ、という所に連れて行った。」(新約聖書 「マルコによる福音書」 第15章 第22節)


聖墳墓教会を入るとすぐに、イエスが処刑後十字架から下ろされ、亡骸に香油を塗った石版があります。

  
聖墳墓教会の天井部分。            イエスの墓(第14留) 内部にも入れます。
「するとこの若者は言った、驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。」(新約聖書 「マルコによる福音書」 第16章 第6節)

  
イエスの肖像画が描かれた天井部分。    十字架が建てつけられていた跡。


西暦70年、エルサレムはローマ帝国によってついに滅ぼされ、その時からユダヤ民族離散、いわゆるディアスポラが始まりました。その時ユダヤ民族が自分たちの先祖が十字架に張り付け処刑したイエスが再臨し、メシア(救世主)であったことに気づく事は、イエス誕生の約500年前に既に預言されていました。
「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵と哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」(旧約聖書 「ゼガリア書」 第12章 第10節)


●ユダヤ教徒の地区
嘆きの壁は現地では「west wall」と呼ばれ、多くのユダヤ教徒の方々が壁に向かって祈りを捧げていました。壁の前の広場に行くにはやはりまるで空港のような厳重なX線検査を受けました。訪れた時は何かのお祭りをやっていて大変賑やかでした。ここがユダヤとパレスチナの紛争の火種になる場所とは思えないほどでした。ユダヤ教徒の地区は雑踏といった他の地区とは違い、非常に静かで小奇麗な感じがしました。


岩のドームと嘆きの壁。
この角度から眺めると、嘆きの壁は神殿の丘の外壁部分である事がよく分かります。

  
壁に向かって祈る正統派のユダヤ教徒の方々。嘆きの壁目指して行進。とても賑やかでした。



●アルメニア人の地区
この地区は他の地区と比べて賑やかな商店があまりなく、大変ひっそりとしています。誰もいない夜の通りを徘徊していますと、ライトアップされた聖ヤコブ大聖堂や聖マルコ教会がぼんやりと浮かんで見えました。そして最後にはあまりにも巨大な城壁にたどり着きます。
  
アルメニア人の地区  誰もいない深夜の街を徘徊・・・。    こういうアヤシイ雰囲気はゾクゾクしますね。


旧市街を囲む巨大な城壁。

アクセス:ヨルダン、アンマンの下町のゴールド・スークの裏手にあるセルビスでアブダリのバスターミナルまで。そこからジェット・バス国際線のオフィスまで徒歩。朝7時発のキング・フセイン橋行きのバスに乗り、ヨルダン出国ゲートへ。出国手続きを済ませ、また先ほどのバスに乗りキング・フセイン橋を渡り、今度はイスラエル入管へ。そこで入国手続きを済ませ(これが結構厄介で特にパスポートにいろいろな国のスタンプが押されてあると。多分レバノンのスタンプがまずかったですかな?)、出口にいたシェルート(乗合のミニバス)に乗ってエルサレム旧市街・ダマスカス門まで。ウェッブ上では「ノー・スタンプ・プリーズ」が流行っていますが、(イスラエルの入国スタンプが押してあるとそのパスポートではシリア、レバノン、サウジアラビア、イエメンなどのアラブ諸国に入国できないため。)お願いすると例によって「なんで?」と聞かれましたので、「この後シリアに行きます」と適当なことを言ったら、「いま内戦中でしょ。」と言われました。
(^^;  30分ぐらい待たされましたが比較的スムースにOK。検査官による質問はだいたい皆さん同じようなことを聞かれているようですが、ちなみに僕の時は、「入国の目的」、「イスラエルに知り合いはいるか?」、「入国は何回目?」、「旅程、日数」、「宿泊先」、「レバノンには何しに行ったのか?」などでした。
帰りはダマスカス門とヘロデ門との間にあるホテルの中庭のような所にシェルートのオフィスと乗り場があります。行けば呼び込みのおじさんがいて、日本人とわかると「アレンビー、サンジュウハチ・シェケル(荷物込み)」と日本語で言ってきました。アレンビー橋はキング・フセイン橋のイスラエルでの呼び名です。帰りの手続きは簡単ですが、イスラエル出国税を何と174シェケル(約4千円)も取られました。
(^^;


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